もうすこしで天竺

読書記録など。

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』

なんとなく手に取って数時間で一気読み。なかなか雰囲気を感じた。

 

3章構成。第1章で子供が「灯台に行きたい」という。結局灯台には行かず、第2章で大きく時間が流れる。第3章で、年を取ったり大人になったりした登場人物たちが灯台を訪れる。

 

「意識の流れ」という言葉は実に的確で、ぼんやりと思考が移ろいゆく様子をそのまま写し取るかのように語りが展開していく。視点人物も自在に移り変わる。これは「誰かの意識」ではなく、紙を前にペンを手にして、瞑想のうちに物語へと入っていく「作家の意識」なのだという印象。

 

とはいえ意識や心理のみが前面に押し出されているわけではなく、物語としての動きはある。それが「灯台へ行きたい」というぼんやりとした意識。第1章の冒頭にあるジェイムズの台詞によって示された唯一の方向性。それ以外は、眠りに落ちようとする人間の意識がそうであるように、あるいは自分や他人の向かう先など人間の思ったようには決定できないように、ゆるゆると流れてゆく。第2章は急流で、第3章は流れてきた先で後ろを振り返っているイメージ。

 

物語は、あまりありそうもない家族構成の一家の話。なにか目立つドラマというものはない。家族関係や芸術による自己表現の話など、個人の物語。それでも、流れゆく意識だけで「物語」らしきものが成立しているのがこの小説の面白さなのだろう。

 

「ドラマ」というと映画や芝居のような、外から目で見るものを想起しがちだ。しかし、どんなドラマを目で見ようとも、それを体験するには「意識」という媒介が必要だ。

 

ドラマは人間の意識抜きには成立しないし、意識こそが物語なりドラマなりを作りあげるのだと再認識させられた。