もうすこしで天竺

読書記録など。

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』

ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』を読了。

図書館でたまたま手に取った岩波文庫だったが、ページをめくる手が止まらずに一気読み。

これはすごい。

 

ややファンタジーがかった舞台設定だが、解説に書いてある通り、まさに人生の物語。

若い将校が辺境の砦に配属され、かつてタタール人が攻めてきたという砂漠を眺める毎日が続く。いつかはこんなところ脱出してやると思っているのだが、次第にその環境に取り込まれ、気がつくと60歳近くになってしまう。

人生の楽しみ(街で飲み歩く、女の子と出歩く、家庭を築く、出世する……)を夢見ていたのだが、いつの間にかそれは儚い夢に過ぎないものとなってゆく。

 

若い将校は、自分がいる砦のことを「流刑地」と呼ぶ。

 

自分で砦から抜け出そうと思えば抜け出せたはず。しかし彼は、退職することも転任願いを積極的に出すこともしない。それはなぜか?

この小説が不条理小説だからとか、人生の脱けだしがたい日々の繰り返しを描いているから、と言ってしまえば元も子もない。多くの人がそう思っているだろう、人生なんてそんなものだろう、おそらく。楽しみも、恋も、出世欲も、いずれは枯れ果ててしまうものだ。この感覚をあまりにも切実に描ききっているところもすごいのだが、この小説はそれだけにとどまらない。

 

彼は、自分が「なぜか」罰されていると考えている。

 

この小説を読んでいて、いちばん面白いと思ったのがこれ。彼が砦からどうしても離れることができないのも、この感覚が密かな理由なのではないだろうか。

彼は中尉から少佐に出世しようと、なぜか下っ端時代と同じ部屋に住み続けている。かつての恋人とヨリを戻すこともできたのだが、なぜか自制する。この不思議な自制、これは彼が「罪人」だからだと考えることはできないだろうか。

 

だから彼に報償が与えられることはない。退官間際まで勤め上げた彼に訪れるのは病、そして長年の仲間の裏切り。当たり前だ。罪人に与えられる報償などない。

彼に唯一与えられたもの、それは死だ。

究極の苦役であるはずの死を、彼は甘んじて受け入れる。それは、無益に「流刑地」での生を歩み続けた彼への究極的な罰であり、同時にそこからの解放でもあった。そこへ、彼は軍服を整え、あたかも勲章を受け取るかのような態度で臨む。

 

ドローゴのような流刑に処された人間であれ、人生の甘い汁をすすっている人間であれ、時間には限りがある。

まだ間に合う、と思っているうちにこそ読むべき一冊。

 

タタール人の砂漠 (岩波文庫)