もうすこしで天竺

読書記録など。

映画『虐殺器官』【ネタバレあり】

近未来を舞台にしたSFアニメ。原作をもうずいぶん前に読んだことがある。

 

特殊部隊隊員が貧しい国で頻発する虐殺の背後にいるという男に迫る。男はマサチューセッツ工科大学言語学を修め、その際、人間が生得的にもつ「虐殺器官」を言語によって刺激する方法を発見したという。あるパターンに沿って構築された言葉を放送するなどして拡散すると、その地域で人間の「虐殺本能」が目覚め、人間が互いに殺し合うようになる。

 

【ネタバレ】

 

男はマイナーな言語でしかその「虐殺の法則」を用いてこなかった。その理由は、貧しい国で混乱を起こすことにより、その国の人たちが矛先を先進国(具体的にはアメリカ)へ向けることのないようにするため。

 

ところが主人公は貧しい国を先進国が搾取するという構造に疑問を抱き、結末で、英語という覇権言語を用いて人間の「虐殺器官」を刺激してしまう。そのことによって、英語圏で虐殺が起きることが示唆されて物語は終了。

 

うーん、たしか『メタルギアソリッド5』がこんな話だった。言語というのが、どういうわけか数年前のSF界隈のトレンドだったのだろうか。

 

いずれの作品でも、言語がトリガーとなって、その言語を話すコミュニティの崩壊が起こる。うーん、これはどう理解したらいいんだろう? 世の中ではネットで世界がつながっていて、残る壁は言語くらいになっている。その壁もいずれ翻訳機能で消滅し、残るコミュニケーションの障害は文化や儀礼の違いくらいになっていくだろう(巨大な壁だ)。しかし、個人は生得の言語で思考し、ある程度までたしかに意思疎通できるのは生得言語を介してのみかもしれない。

 

……などと考えてみても、言語経由で特定の手段のみを狙う「ウィルス」のようなものがある世界を仮想することに、どのような意味があるのだろう?

 

言語による覇権を批判する目的? それとも?

 

そのあたりはよくわからなかったけど、発想は面白いよね。その発想一発で構想された作品という印象。

 

 

 

 

 

 

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』

なんとなく手に取って数時間で一気読み。なかなか雰囲気を感じた。

 

3章構成。第1章で子供が「灯台に行きたい」という。結局灯台には行かず、第2章で大きく時間が流れる。第3章で、年を取ったり大人になったりした登場人物たちが灯台を訪れる。

 

「意識の流れ」という言葉は実に的確で、ぼんやりと思考が移ろいゆく様子をそのまま写し取るかのように語りが展開していく。視点人物も自在に移り変わる。これは「誰かの意識」ではなく、紙を前にペンを手にして、瞑想のうちに物語へと入っていく「作家の意識」なのだという印象。

 

とはいえ意識や心理のみが前面に押し出されているわけではなく、物語としての動きはある。それが「灯台へ行きたい」というぼんやりとした意識。第1章の冒頭にあるジェイムズの台詞によって示された唯一の方向性。それ以外は、眠りに落ちようとする人間の意識がそうであるように、あるいは自分や他人の向かう先など人間の思ったようには決定できないように、ゆるゆると流れてゆく。第2章は急流で、第3章は流れてきた先で後ろを振り返っているイメージ。

 

物語は、あまりありそうもない家族構成の一家の話。なにか目立つドラマというものはない。家族関係や芸術による自己表現の話など、個人の物語。それでも、流れゆく意識だけで「物語」らしきものが成立しているのがこの小説の面白さなのだろう。

 

「ドラマ」というと映画や芝居のような、外から目で見るものを想起しがちだ。しかし、どんなドラマを目で見ようとも、それを体験するには「意識」という媒介が必要だ。

 

ドラマは人間の意識抜きには成立しないし、意識こそが物語なりドラマなりを作りあげるのだと再認識させられた。

 

 

 

アニメ『刻刻』【ネタバレあり】

Netflixで出てきたので、なんとなく1.5倍速で一気見。なかなか楽しめた。

 

タンマウォッチで静止した世界で、半グレを雇った宗教団体とある家族が争う。ワンクールしかやらないことが決まっている作品と思われ、一人一人の人物に見せ場と退場(現実の時間に戻る)のタイミングがきっちり決まっており実にシステマティック。あれ、もう退場かという人がけっこういたけど割り切っていて良い。素材としてはたぶん、近頃流行っていると聞いたことのある「宗教にはまった家族から逃げ出した体験を書いた本」と、これは間違いなく流行りの「親ガチャ」なる考え方。

 

静止した世界では、人間の意思がその人のあり方に大きく影響を与えるようだ。物語の結末では、同じ願いを持った二人の人間が二つの大きく異なる結末を迎えている。それが面白かった。

 

【ネタバレ】

 

そのうち一人は、敵対する宗教団体の長。静止した世界の原理を応用して世界の行く末を見届けたいという。これは要するに「死にたくない」の究極的なバージョン。この人は結局、時間が逆向きに流れ赤ん坊にまで戻ってしまう。俗に言う「親ガチャに外れた」ことがトラウマだったこの男にとっては、こうして赤ん坊に戻って主人公の家庭に生まれ直したことは幸福な結末だったようだ。

 

一方でもう一人は、ナイフで胸を貫かれて倒れながら、「死にたくない」と願った半グレの男。この男はその願望のせいで化物に姿を変えるのだが、その力を戦いに利用され、結果として意思なく歩き回るミイラになる。この男、結局元の世界に戻されることもなく、静止した世界に唯一放置される人間となった。化物となった肉体は朽ちることなく、永久に静止した世界を歩き続けるのだろう。

 

別にどうと言うことはないのだけど、タンマウォッチというひとつのアイデアからよく話を広げられた佳作だと思う。「親ガチャ」という考えは自分の「始まり」に思いを巡らせるものだけれど、上記の二人の運命を含め、その反対である「終わり」についても、主人公たちは考えさせられたのだろう。だからこそ、彼らの「動いている世界」における生活は、静止した世界から退出したあと変化を迎えた。ヘンな癖も少なく、物語に必要な要素を押さえた良作。

 

 

 

映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』

東大900番教室で行われた、三島由紀夫と東大全共闘との討論会の記録。

 

特に三島のファンというわけでもないのだけど、なんとなく彼の人生には興味がある。ぼんやりと見ていたのだが、かなり面白かった。

 

三島の語り方でいちばん印象的なのは、内田樹が映画内でコメントしていたとおり、三島が学生に対して一切、矛盾を指摘しもしないし侮るような言葉を投げかけもしないこと。ただし、挑発的な言葉を投げてはいた。しかしそれもユーモアの範囲から外に出ることはなかった。(三島はなんでもユーモアにする。自分でも相手でも。これができる人は100%すごい人)

 

途中までは議論において学生が上回っていると思えるところもあった。この人、三島よりも見所のある人間なのではないかと思える学生もいた。彼の三島評は適切と思えた。だがそのような学生は、議論が長引くにつれ、一定の線を譲ろうとしない三島にいらだち、嘲笑し、席を立っていた。結局この学生は、自らのそうした態度によって三島に上回られてしまっているように見えた。経験の差なのかもしれないが、そこには厳然とした差があった。(70才を過ぎて当の元学生がインタビューに応じていた。彼の三島に対する態度は変わっていなかった。ただ、この人物はやはり鋭い。あの時代が「言葉による対話が意味を持った最後の時代」という指摘はたぶん正しいだろう)

 

エンディングで、現在の東大900番教室の映像が流れた。全共闘時代の荒々しい雰囲気は一掃され、小綺麗な現代の一教室に過ぎなかった。かつての姿を思わせるものは、壁面の特徴的な柱のデザインしか残されていなかった。

 

かつてそこにあったものは、すべてその真新しい机や椅子に、壁の塗装に、そして空気の下に覆い隠されてしまっている。三島と当時の学生に通底していたものが再び表に出てくることはあるのだろうか? もはや三島も学生運動も、「昭和史」という名の過去として流れ去ろうとしている。

 

見方によっては、今の時代の「静けさ」こそ異質なものなのかもしれない。

 

 

 

映画『ザ・ターニング』【ネタバレあり】

ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』を原作とした映画。

 

ある屋敷に住み込みの教師として兄と妹の二人を教えることになったケイト。だが屋敷はいかにも幽霊屋敷然としており、二人の教え子も、お手伝いさんもどこか不気味な雰囲気を漂わせている。

 

『ねじの回転』は19世紀の作品だが、こちらの映画の舞台は20世紀。90年代くらいで、車もあれば電話もある。「住み込みの経験はありますか」と問われたケイトは、「19世紀じゃないんだから」と原作を意識した一言。

 

ただ、19世紀の女性教師が不気味で不愉快な雇われ先からなかなか逃げ出せない理由はわかるのだけれど、もうじき21世紀になるという欧米社会に生きる女性が、そこから逃げ出さない理由がよくわからなかった。不気味なだけじゃなくて侮蔑、侮辱のオンパレードなのだけど……。

 

屋敷にある植え込みは、迷ったら出てこられないという。これは『シャイニング』のオマージュかな。

 

【ネタバレ】

 

 

不気味な雰囲気の理由は、かつて屋敷に住み込みで勤めていた使用人と前任の教師の幽霊に祟られていたから。だがその「幽霊」が実在するかははっきりとせず、結局ケイトが精神に不調をきたしたせいで経験している幻視・幻聴であった可能性を拭えない。

 

だけどさあ……その不調の原因が遺伝病かのように描かれること、つまり幽霊の恐怖が自分の親への恐怖にすり替えられるかのような描き方にはいまいち納得できなかった。

 

メイドの女性が言うように、「親は選ぶことができない」。親によってなにか苦痛がもたらされるとしたら、それを人はなかなか避けることができないのは多くの場合に当てはまる。ホラーでそのような「選びがたい苦痛」を恐怖の原因に据えることはけっこうあるだろう。

 

しかし、そのことと屋敷での恐怖体験がかみ合っているようには思えなかった。それは教え子のマイルズやフローラが、いかにも「ちょっと普通じゃない」描かれ方をされていることも関係あるだろう。彼らの描かれ方は、幽霊に取り憑かれているというよりも、彼ら自身が半分精神に不調をきたしているような感じ。つまり、彼らの恐怖はファンタジーではなく極めて現実的な恐怖。「なにをされるかわからない」という恐怖。どうして他者への恐怖が自分への恐怖に切り替わるのだろう? その切り替わり方が唐突で、いまいち納得できなかった。

 

エンドロールで、ケイト(?)の手が屋敷の壁を伝っていく映像と、幽霊となった前任の先生が水の中で揺蕩う映像。これはなかなかセンスがあって良かった。

 

 

 

 

 

 

ウォレス・スティーヴンズ "The Noble Rider and the Sound of Words"

まさに「瞑想」という表現がふさわしい詩論。

 

冒頭にはプラトンの『パイドロス』が引用されている。羽の生えた二頭の馬とその御者。天上の不滅なる存在と地上の滅ぶべき存在が、いかに異なるか。スティーヴンズはプラトン(および語り手のソクラテス)の話がコールリッジのいう「かわいくもゴージャスなナンセンス」であると述べる。読者が馬の御者と自分自身を同一化しようとしてみても、私たちは天空へと駆け上る途中で、「魂はもはや存在しないことを思い出し、固い地面へと落下する」。

 

だが、だからといってプラトンの話が意味を持たないわけではない。それどころか、馬と御者はリアルなものとして読者の前に現れる。というのも、この話を聞くことによって、読者は魂というものについて思いを巡らせることになるのだから。それは現実である。非現実的なものといえども、それはそれ自身のリアリティを持っている。詩というのもまさにそれである。非現実的な事柄が書かれていようとも、そこには独自のリアリティが存在する。

 

驚くべき議論だが、論理のうえでは正しい。スティーヴンズはこのように、淡々と「正しい」理(ことわり)を、そして正しい言葉を重ねてゆく。

 

詩についていうと、スティーヴンズは、詩とは「高貴なものの墓場」なのだという。いまや失われた美徳となってしまった高貴さ(セルバンテスの描いたような)が保存された場所。

 

想像によってたどり着いた場所に思いをはせ、そこから瞑想を広げる。プラトンは「妄想」をしたのかもしれないが、その一見して「ナンセンス」なものに至上の価値を与え、見いだす。まさに詩人の文章だった。

 

以下に収録のエッセイ。

 

 

 

 

 

『アナと雪の女王』

せっかく見たのに感想も書かずに済ませるのはもったいないので、ここにメモしておく。

 

 

物語は実にシンプル。対立したふたつのものごとがある。それを和解させるにはどうすればいい? 

ストーリーに従えば、答えは「真実の愛」。

これについてもうすこし具体的に書いてみる。

 

まず、物語は明確に白黒分けようとする。陰気な姉と陽気な妹。夏と冬。閉じたドアと開いたドア。男と女。動物と人間。敵と味方。

これらは、雪が降れば夏がかき消されてしまうように、いずれも互いの存在におののき、共存することが難しい。姉の抱く恐怖は、そのような「一方しか存在し得ない場所で、相手にかき消されてしまうことを恐れる」というもの。

そもそも物語の最大の問題は、魔法を使える姉の出奔だった。これは、権力を奪うことを目的に王国へ侵入した他国の貴族が、男を知らない妹をたらし込んだことによる。男と女の共存が難しいことが示される。だから門を閉じた城壁のなかは、姉妹だけの「女だけの世界」だった。

 

しかし、そうした対立する両者を和解させるキャラクターとして象徴的なのがクリストフ。彼は「夏に冬山から氷を運んでくる人」。つまり、夏と冬を共存させている。

しかも彼は、飼っているトナカイの言葉を代弁したり、岩と会話したりもできる。人と動物というこれまた共存が難しい二者を橋渡ししている。

(とはいえ彼も不調なときは、トナカイに「お前の言っていることは意味がわからないぞ」と言ってしまっている。これが彼の不調を示すことは、彼の態度からも明らか)

 

彼の出現がきっかけとなって姉妹は「愛」に気がつき雪が融けるわけだが、結末は「相容れなかった二者」が共存する様が描かれている。

わかりやすいのは雪だるま。冬のものなのだが、魔法の力によって夏にも存在できるようになった。かつては「あちらを立てればこちらが立たず」だったものが、エンディングでは共存できている。

 

これはちょうど、歌のようなもの。物語の冒頭、歌のなかでは姉妹がすでにひとつのメロディを刻んでいた。ときに姉が主旋律を、ときに妹が主旋律を歌うような仕方で。どちらかが主、どちらかが副で、ひとつの歌になる。これは物語の結末を予告するようなもの。ミュージカルアニメという珍しいジャンルをうまく使ってた。

 

とはいえ、こうした両立不可能なものを両立させることを意図する物語なら、最後の場面で罪人が追放される場面はどうにかならなかったのだろうか。罪は別問題で、無実の者と有罪の者は共存できないのだろうか? それも一理あるが、そのせいで、共生を描く物語の最後に、追放される者がいることになってしまった。このへんにも、なにかしら物語的な解決を見せてほしかったとも思う。

 

まあ、そんな感じだろうか。『アナ雪2』も見たほうがいいんだろうか……