もうすこしで天竺

読書記録など。

大岡昇平『野火』

終戦記念日だし、戦争小説でも読もうかという気分になった。小中学校で受けた反戦教育の賜物だろうか、この季節になると戦争物を見たり読んだりしたくなる。

で、今年は大岡昇平

「戦争もの」というジャンル小説のレベルを明らかにぶっ飛ばしていて、あまりにも素晴らしくて衝撃。

 

上官に死ねと言われて病院へ突き出され、野戦病院では食料を持つ兵士でないと入院できない。行き場所のなくなった語り手(田村一等兵)は、フィリピン・レイテ島のジャングルをさまようことになる。なんとなく歩く目的を指し示すのが、たまに見える野火。フィリピン兵の狼煙かもしれないし、単に焼畑をしているだけかもしれない。だが「行ってはいけない場所」と「行くべき場所」の目印にはなる。

 

島をさまよう小説であるだけに、地図が欲しくなる。おそらく作者が意図しているのがまさにそれ。幾度もの分かれ道。日本軍が集結する目的地。現在地をわからなくさせるジャングル。密林、湿地、国道、林道、教会、などなど。一枚の地図の上を舞台としている。方向感覚を失うことが主題。

 

で、すごいのは、この方向感覚のなさ、自分がどこにいるのかわからないという感覚は、語り手が復員するという大きな移動に際しても同じだということ。語り手は同じ日本兵を撃ち殺し、それからなぜか米軍の捕虜病院に着くまでの間の記憶を失う。そして気がついてみたら復員して、妻を失い(「どうでもよろしい。男がみんな人食い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである」)、精神病院に入院する。彼にとってもはや自分がどこにいるかなど、問題ではない。だから、フィリピンで見た野火を、彼は日本でも見る。

 

死を決定された状態が、逆に「任意」の状態をもたらすと語り手は繰り返し書いている。書き出しの設定がまさにそう。そしてその自暴自棄な任意の状態で問われる決断が人を喰うか喰わないか。語り手は結局、自分の意思では食わない。

思い出した。彼らが笑っているのは、私が彼らを食べなかったからである。殺しはしたけれど、食べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では食べなかった。だから私はこうして彼らと共に、この死者の国で、黒い太陽を見ることが出来るのである。

この引用を含む最後のセクションは、ものすごく力強い。この結末のために、200ページを読み通す価値がある。それまでの過程もすごく面白いし。

 

ツイッターで、この小説についてこう問いを立ててる人がいた。(確かアジカンのゴッチか映画監督の想田和弘

「田村はどうして生きて帰ってこられたか?」

この問いの答えは、これに尽きると思う。「彼は、自分を食べたから」。途中、田村はこう書いている。「それでは今その私を見ている私は何だろう……やはり私である。一体私が二人いてはいけないなんて誰がきめた」。手榴弾でえぐられた肉を、自分で食うという明白な場面もある。だがもっと大きな意味で、彼は自分を食った。これが答えだ。

 

この小説は、「体験させる小説」を地でいっている。だから、読むのがいちばん手っ取り早い。

野火;ハムレット日記 (岩波文庫)

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野火 (新潮文庫)

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