大岡昇平『ハムレット日記』
先日の『野火』に引き続き、同じ文庫本に載っていた中編を読了。『野火』ほどではないが面白かった。
やはり戦争体験者だからなのだろうか、何気なくだけど死についてきっちり書いている。シェイクスピアの『ハムレット』と言えば、無念のうちに死んだ父の亡霊に復讐を促されるハムレットが破滅する話だが、これはその前提を破壊しにかかっている。物語の冒頭は原作同様に幽霊が出るという噂を聞いてハムレットが駆けつける場面なのだが、幽霊は現れない。「父の復讐を成し遂げ王座を奪う」という原作と同じ目的なれど、ハムレットはそれを政略的に有利な手段だと理屈で計算し、「幽霊を見た」ということにする。父親の幽霊に命じられたとなれば、王位簒奪が「神意」にもとづく正当なものとできるからだ。
だがのちに、ハムレットは「本物の」幽霊を目撃する。ポロニウスが殺される場面の近く。彼はそれをこう思い返す。
マーセラス、バナードーの徒まで、父上と対面の栄を賜ったということだけ、少しいまいましい。彼らはうそをいったのではなかった、私はたしかにこの眼で見たのだから--。[……]ついでに全世界でハムレットだけしか見えぬ特権をお許しあってもよさそうなものだ。
もう、ハムレットは自分が最初に何を考えていたかを忘れ、幽霊を信じきっている。彼が本当に幽霊を見たのかどうかは、読者にはわからない。この後、原作にはないけど、ポロニウスの幽霊にまで会っている。夢の中で、オフィーリアとも。
結局、作者は頭の中の問題と外の問題をどう折り合わせるかということを意識してるみたいだ。ハムレットはこう言う。「この小さな頭脳に、世界を改造するほどの大計画を案出できるということは、それが最早私一個のものではない証拠ではないか」。だが政治的な計画以上に、彼の頭は死者という他人のものでもある。
解説にこの中編は『野火』の田村にデンマークの宮廷を歩かせてみたものだと書いてあった。なるほど確かに。ならばこれはもう一つの戦争小説だということになる。ただしハムレットやその他の登場人物は原作以上に、旧日本軍以上に理知的で政治的な思惑に満ちている。
原作は登場人物の政治的な意図もそうだし、けっこう大胆。それを補ってくれる意味もある。逆に言うと、これだけで読むと単なる「知らないものの補足説明」で終わりかねない。おそらく原作を読んだことがないとかなり厳しい小説。
ポロニウスを殺したことについてのホレーシオのコメント。「なぜ帳を開けて、確認しないのか」。こういう原作への細かいツッコミが随所にあって、それも面白かった。