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ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』:政治を語るうえで必読の書

この前、年下の男に政治の話を持ちかけられた。

酒の席だったからきっかけはよく覚えていないが、僕はすっかり「左」のレッテルを貼られ、相手は自分が「右」であることに満足を覚えているようだった。

相手が「右」を自称するのなら、と思って、そのときホットだった最高裁の夫婦同姓合憲判決の話題を出した。それについて、どう思うんですかと。

「ああ、あのフェミニストとかが反対してるやつね」と相手は馬鹿にしたように笑った。

 

ここから会話は酒の入った僕の一方的な説教となる。ほとんど怒鳴るように、どうして他人に個人の自由を侵害されなければいけないのか、とまくし立てた。誰がどう名乗ろうと、お前に迷惑はかけないだろう、と。

相手は、「伝統だから」と言った。「明治後半に作られた制度が伝統?」とすかさず反論する。

「もっと他人のことを気遣える人間になれ」と僕が命令して、その会は終わった。

それ以来その相手とは会話をしていない。

 

それからこの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を読み、このときの会話が典型的な「左と右」の対立構造に則ったものだということがよくわかった。

ハイトは言う。「理性は人間にとって象の乗り手のようなもので、感情という巨大な象が最初に決めた方針を、後から理由付けするものに過ぎないんだ」と。

確かに。自分も相手も、あのとき言葉は相手を叩き伏せるための道具でしかなかった。「相手は敵だ」と、ある時点から定まっていた。

 

さらにハイトは、人がそれぞれ持っている「道徳基盤」があるという。たとえばある人は「公正」が脅かされていると感じると強く感情が動く、といったように。この基盤を、6つほどハイトは用意する。

リベラルな人は「ケア」、保守的な右の人は「権威」の道徳基盤に強く反応するようだ。

確かに僕は誰かを「ケアせよ」という意見を強く述べ、相手は「伝統を守れ」と強く主張した。ハイトの考えは、やはりあの会話によく当てはまる。

 

こういう平行線を辿る議論を、少しでも相手に届くようにするには。

ハイトは相手を尊重しよく理解しようとした上で、自分が正しいと決めつけること(英語タイトルのThe Righteous Mindとはこのこと)を抜きにして考えようという。

もしも相手に訴えかけるのなら、相手の道徳基盤を理解した上で説得せよと。

 

これには目から鱗。結論は当たり前のように聞こえるかもしれないが、心理学実験や動物実験の成果がいくつも参照され、とても面白い読み物になっている。キツネを従順にする実験など、興味深くもあるが怖くもある。

少なくともこれから、保守的な人間をこれまでよりも少しは尊重できるかもしれない、と思った。

皮肉にも、そうすることはハイトの意見に逆らうことでもあるのだが。なぜなら、僕の「象」は保守派が大嫌いだが、乗り手が調節してうまく議論させようとしているのだから。ハイトはやはり学者で、理性を信頼しているのだろう。彼自身、研究成果をもとに自身の政治思想を見直したようだし。

 

そして何よりも強く思ったのが、日本で政治キャンペーンをするリベラルな層は、まずこの本を読むべきだということ。先日民主党の新しいポスターが出たが、この党は票を失うことを目指しているとしか思えない。

この本に書いてあるように、「陰と陽」が互いに調整し合っていなければ、社会は壊れるか腐敗するかしてしまう。

今の政治が作っているような、自由にものを言わせない空気が何世代も続けば、従順になったキツネの実験が示しているように、疑うことを知らない遺伝子や文化が出来上がってしまうのではないだろうか。「陽」一方に傾くことは、いいことではない。だから、リベラルを標榜する野党には頑張ってほしい。

 

もちろんあの会話の相手がしたような、「フェミニスト」という特定の主張を持っているだけで誰かをけなすのは、単なる差別主義者のすることだ。それは擁護のしようがない。

だが、今ならただ高圧的に説教するのではなく、もう少し「象」に訴えかける議論ができると思う。

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

 

The Righteous Mind: Why Good People are Divided by Politics and Religion

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