もうすこしで天竺

読書記録など。

手塚治虫『アドルフに告ぐ』

戦時中の日本とドイツを舞台に、アドルフ・ヒトラーに直接的・間接的に関わることで人生が変わった人たちの物語。小学生のとき、夏休みの宿題で読書感想文を書いた記憶がある。

 

主題は、感情的には強い結びつきがあっても、民族主義軍国主義によって引き裂かれてしまうということ。それはもちろん「ナチスのアドルフ」と「ユダヤ人のアドルフ」が最後に殺しあう場面で強烈に表現されている。だがそれと同様に、あるいはそれ以上に印象に残ったのは、二人の運命に巻き込まれて、二人と同様に大切な人と切り離されてしまう人たちの境遇。

 

アドルフ・ヒトラーの出生に関わる文書をめぐり、様々な人々が別れを経験してゆくことになる。語り手の峠に協力した親子、その娘と軍人の息子とのカップル、息子がソ連のスパイだった親子、ナチスのアドルフ親子、ユダヤ人のアドルフ親子。あるいは戦争での犠牲も含めるなら、峠夫妻、ヒトラー夫妻さえも。

 

結局のところ、出生とかイデオロギーなんてものは、その人自身の価値とはなんの関係もない。しかしそんな中身のないものに動かされてしまうと、致命的な事態を招く。それを手塚治虫は、大切な人との別れという血のにじむ出来事として描いた。空っぽではなく、重い中身を持つ出来事として。

 

いま世間では野党の代表選で国籍がどうのと言われているが、この議論は気をつけないといけない。人種や国籍などという空疎な議論をするのではなく、本人の内的な資質を見るべき。

 

舞台が作者の戦中住んでいたところだからだろうか、手に触れられるようなリアリティ。これほど重厚な物語なのに、ハードカバーで4冊という読みやすい長さ。最近の漫画は長すぎるんじゃないの。週刊連載でドラマを作ろうとしすぎるからだろうか。そんなことをするより、きっちり物語を書いてくれ。

アドルフに告ぐ 1 (文春文庫 て 9-1)

アドルフに告ぐ 1 (文春文庫 て 9-1)

 

 

かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』

これは物語であるというよりは、「核なき世界はどのようにして達成されるか」という政治的なシミュレーション。

 

主人公の原潜艦長・海江田は、探信音を敵に当てることで魚雷攻撃の予告をするという「シミュレーション的な」戦術をとると作中で描写されるから、彼の航海はもちろん架空戦記、戦術的なシミュレーションであると作者は明確に宣言している。だがそれよりも主眼に置かれているのは、政治的な模擬実験。だから海江田は、途中から軍人ではなく政治家へと転換したとアメリカ大統領から評価される。

 

海江田を通して行われる作者の政治的な実験は、まずは世界のあらゆる核攻撃に対し自動的に反撃するという、国家に所属しない「沈黙の艦隊」を設置するという案(『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』を思い出させる)。だがそれはブラフだったことが明らかになり、本当の海江田の策は、自分自身が世界の理想を体現する存在となり、核の使用への楔を打つこと。彼の活動を通して、あらゆる人間が国境を超えた「世界市民」として目覚めることになる。そうすれば、核はおろか武力行使は払拭されるか、あるいは限定的なものにとどまる。

 

この国境を排するという案は、内田樹中田考一神教と国家』や中田考イスラーム 生と死と聖戦』で触れられていた世界観を思い出させるもので、90年代に書かれたものだが現代性があると思った。

 

だがそれよりも大事だと思ったのが、海江田の理想主義を貫く姿勢。

「核なき世界」や「武力の廃止」を訴えることは、もちろん理想主義と現実主義の対立を招く。結末前のアメリカ大統領や各国政治家、あるいは軍事企業の実力者(これは完全に悪役だが)が現実主義者で、国連事務総長や日本の首相が理想主義者。少なくとも何とか機能している現状を保とうとするか、それともより良い現実を築くビジョンを実現するためにリスクをとるか。海江田は徹底して、実利ではない夢のような理想を抱かせることを通して、人を動かそうとする。

 

もちろん、人を動かす理想が歪んだものであったら非常に危うい。ナチスの純血主義や戦前の軍国主義もある意味では理想主義だっただろう。

だが皮肉めいた薄っぺらなリアリズムが幅を利かすのを見ていると、理想を抱き続けることは大切だと改めて思わされる。

 

絵がほぼ完全な記号なのは、物語ではなくシミュレーションだからご愛嬌。でも読むのはとても疲れる。

沈黙の艦隊(1) (講談社漫画文庫)

沈黙の艦隊(1) (講談社漫画文庫)

 

 

大岡昇平『ハムレット日記』

  先日の『野火』に引き続き、同じ文庫本に載っていた中編を読了。『野火』ほどではないが面白かった。

 

やはり戦争体験者だからなのだろうか、何気なくだけど死についてきっちり書いている。シェイクスピアの『ハムレット』と言えば、無念のうちに死んだ父の亡霊に復讐を促されるハムレットが破滅する話だが、これはその前提を破壊しにかかっている。物語の冒頭は原作同様に幽霊が出るという噂を聞いてハムレットが駆けつける場面なのだが、幽霊は現れない。「父の復讐を成し遂げ王座を奪う」という原作と同じ目的なれど、ハムレットはそれを政略的に有利な手段だと理屈で計算し、「幽霊を見た」ということにする。父親の幽霊に命じられたとなれば、王位簒奪が「神意」にもとづく正当なものとできるからだ。

 

だがのちに、ハムレットは「本物の」幽霊を目撃する。ポロニウスが殺される場面の近く。彼はそれをこう思い返す。

マーセラス、バナードーの徒まで、父上と対面の栄を賜ったということだけ、少しいまいましい。彼らはうそをいったのではなかった、私はたしかにこの眼で見たのだから--。[……]ついでに全世界でハムレットだけしか見えぬ特権をお許しあってもよさそうなものだ。

もう、ハムレットは自分が最初に何を考えていたかを忘れ、幽霊を信じきっている。彼が本当に幽霊を見たのかどうかは、読者にはわからない。この後、原作にはないけど、ポロニウスの幽霊にまで会っている。夢の中で、オフィーリアとも。

 

結局、作者は頭の中の問題と外の問題をどう折り合わせるかということを意識してるみたいだ。ハムレットはこう言う。「この小さな頭脳に、世界を改造するほどの大計画を案出できるということは、それが最早私一個のものではない証拠ではないか」。だが政治的な計画以上に、彼の頭は死者という他人のものでもある。

 

解説にこの中編は『野火』の田村にデンマークの宮廷を歩かせてみたものだと書いてあった。なるほど確かに。ならばこれはもう一つの戦争小説だということになる。ただしハムレットやその他の登場人物は原作以上に、旧日本軍以上に理知的で政治的な思惑に満ちている。

 

原作は登場人物の政治的な意図もそうだし、けっこう大胆。それを補ってくれる意味もある。逆に言うと、これだけで読むと単なる「知らないものの補足説明」で終わりかねない。おそらく原作を読んだことがないとかなり厳しい小説。

 ポロニウスを殺したことについてのホレーシオのコメント。「なぜ帳を開けて、確認しないのか」。こういう原作への細かいツッコミが随所にあって、それも面白かった。

 

野火;ハムレット日記 (岩波文庫)

野火;ハムレット日記 (岩波文庫)

 

 

大岡昇平『野火』

終戦記念日だし、戦争小説でも読もうかという気分になった。小中学校で受けた反戦教育の賜物だろうか、この季節になると戦争物を見たり読んだりしたくなる。

で、今年は大岡昇平

「戦争もの」というジャンル小説のレベルを明らかにぶっ飛ばしていて、あまりにも素晴らしくて衝撃。

 

上官に死ねと言われて病院へ突き出され、野戦病院では食料を持つ兵士でないと入院できない。行き場所のなくなった語り手(田村一等兵)は、フィリピン・レイテ島のジャングルをさまようことになる。なんとなく歩く目的を指し示すのが、たまに見える野火。フィリピン兵の狼煙かもしれないし、単に焼畑をしているだけかもしれない。だが「行ってはいけない場所」と「行くべき場所」の目印にはなる。

 

島をさまよう小説であるだけに、地図が欲しくなる。おそらく作者が意図しているのがまさにそれ。幾度もの分かれ道。日本軍が集結する目的地。現在地をわからなくさせるジャングル。密林、湿地、国道、林道、教会、などなど。一枚の地図の上を舞台としている。方向感覚を失うことが主題。

 

で、すごいのは、この方向感覚のなさ、自分がどこにいるのかわからないという感覚は、語り手が復員するという大きな移動に際しても同じだということ。語り手は同じ日本兵を撃ち殺し、それからなぜか米軍の捕虜病院に着くまでの間の記憶を失う。そして気がついてみたら復員して、妻を失い(「どうでもよろしい。男がみんな人食い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである」)、精神病院に入院する。彼にとってもはや自分がどこにいるかなど、問題ではない。だから、フィリピンで見た野火を、彼は日本でも見る。

 

死を決定された状態が、逆に「任意」の状態をもたらすと語り手は繰り返し書いている。書き出しの設定がまさにそう。そしてその自暴自棄な任意の状態で問われる決断が人を喰うか喰わないか。語り手は結局、自分の意思では食わない。

思い出した。彼らが笑っているのは、私が彼らを食べなかったからである。殺しはしたけれど、食べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では食べなかった。だから私はこうして彼らと共に、この死者の国で、黒い太陽を見ることが出来るのである。

この引用を含む最後のセクションは、ものすごく力強い。この結末のために、200ページを読み通す価値がある。それまでの過程もすごく面白いし。

 

ツイッターで、この小説についてこう問いを立ててる人がいた。(確かアジカンのゴッチか映画監督の想田和弘

「田村はどうして生きて帰ってこられたか?」

この問いの答えは、これに尽きると思う。「彼は、自分を食べたから」。途中、田村はこう書いている。「それでは今その私を見ている私は何だろう……やはり私である。一体私が二人いてはいけないなんて誰がきめた」。手榴弾でえぐられた肉を、自分で食うという明白な場面もある。だがもっと大きな意味で、彼は自分を食った。これが答えだ。

 

この小説は、「体験させる小説」を地でいっている。だから、読むのがいちばん手っ取り早い。

野火;ハムレット日記 (岩波文庫)

野火;ハムレット日記 (岩波文庫)

 

 

野火 (新潮文庫)

野火 (新潮文庫)

 

 

窪美澄『晴天の迷いクジラ』

思っていたよりずっと面白かった。野乃花という登場人物がすごく好き。

主人公は三人。デザイン系のブラック企業に勤務する由人、そこを経営する野乃花、それに高校生の正子。由人は会社が倒産の危機に瀕し自殺を図った野乃花を救い、二人は死までの猶予として旅に出ることになる。そこで同じく自殺に近い状態で家を出た正子と出会う。

 

一人一人の人生が、その隠れていたプロセスが次々に明らかにされていく。それが物語の進行の仕方。由人のろくでもない生活とその背後にある失恋、「アロハを着た男みたいな」見かけの女社長・野乃花と彼女の過去(美術の「天才少女」だったが、美術教師に孕まされて画家の夢を諦めていた)、道で出会った少女の事情(友人を病気で亡くしていた)。

そしてこのプロセスは、旅の果てで出会ったおばあさんがよく体現している。

おばあさんはソーダアイスを手にしたまま、目の前の田んぼを見つめていた。正子は黙ったままその横顔を見た。皺の奥にある眼球が濡れたように光っている。おばあちゃんが体験した戦争と、あの二つのビルが崩れ落ちていく出来事が、正子のなかではうまくつながらなかった。けれど、おばあさんのなかでは、 それはひとつの線でつながっているのだと、正子は思った。

この小説がしようとしているのは、まさにこの「ひとつの線」を読者に想像させることだ。

私たち読者が見るのは、アロハを着た男みたいなヘビースモーカーのおばちゃんだが、この人の過去には、美術の天才美少女であり、知らない世界を見せてくれる美術教師に憧れた過去がある。たとえ今はその教師の写真を見て人知れず中指を立てるような状況でも、かつては全く正反対の人生があった。おばあちゃんが太平洋戦争と同時多発テロという歴史的な線を認識するのと同様の想像力で、登場人物の歴史を一本の線で結ぶよう、この小説は促す。

由人の持つストラップ(アイラブユーと鳴く)とか、天才少女の描いた鳥の絵とか、友人のiPodとか、そういうものはすべて、過去と現在とを結ぶ線を引くための補助点だ。

 

で、クジラは逆に、他人の過去や連続性なんてものは結局わからないんだよと教えてくれる存在。

「大変ですねぇ」と言いながら、疲れ果てて迷い込んだ場所で、迷惑、と言われたクジラの気持ちを由人は想像してみる。知るかっ。クジラの気持ちなんか。とさっきの野乃花の言葉が再生される。そうだよな。クジラの気持ちなんかわかるわけない。あんなに近くに、あんなに長い時間いっしょにいたミカの気持ちが「わからなかった」自分だもの。

だが結末、由人は正子とともにこのクジラへと突っ込む。「わからなさ」の只中へ。デザイナーの命である右腕を折られる。正子はクジラ学者になることを決意する。

この結末をどう理解したらいいんだろう。正子は、わからない線をより理解しようとする道を選んだということだろう。そういうことでいいのかな。なんのしがらみもない他人との関係こそ、望むべき関係ということだろうか。金持ちの彼女や資産家の夫やルールの厳しい家ではなく。

 

この話、先日感想を書いたマルクスの話にそっくり。この小説を読んだ方が先だが、タイムリーだった。マルクスの主張する人間一般と同様に、この物語の主人公たちは、いずれも自分の人生を生きることができていない。ブラック企業に人生を消費させられる由人、画家の道を捨てて現実的な道を選んだ野乃花、友人と音楽を楽しむ道を家庭と運命によって奪われた正子。野乃花が画家の道を捨てて、一時嫁として他人の家に奉仕させられる道に進んだことが、一番の例か。ただし、彼女の人生を奪う夫でさえ、自分自身の人生を生きることができずにいる(画家の道を捨て、親を継いで政治家になる)。

マルクスは、こうした状況を解決するためには、真の人間的な感情・情熱によって生み出された生産物を自分のものにするしかないという。この物語にそれを当てはめると、果たしてどうなるだろう。野乃花が天才画家として生き直すこと? 由人が野乃花という信頼する社長のもとで、自ら進んで会社に協力すること? どこか違う気がする。

少なくとも、今の「よくある話」を、この小説はとてもリアルに描いている。由人の家庭なんて、「よく聞く不幸な話」をこれでもかと詰め込んである。誰もが、自分の人生を生きることができないという不幸を抱えている。

 

おそらく多くの読者は、結婚とか恋愛の問題としてこの本を読むのだろう。それは正解だと思う。なぜなら、結婚や恋愛は自分を相手のものとしなければいけない行為だから。相手を自分のものとしなければいけない行為だから。しかしこの小説を通してその問題を考えたいのなら、相手のたどってきた歴史を完全に理解することは難しいというもう一つの文脈も見なくてはいけない。

あの上で、愛せば愛されるという関係を築けるか。何かを媒介とせずとも、打てば鳴る鐘のような関係を築けるか。

物語が「たぶん」という言葉で締めくくられているように、簡単な問題ではない。

 

晴天の迷いクジラ (新潮文庫)

晴天の迷いクジラ (新潮文庫)

 

 

マルクス『経済学・哲学草稿』

 あまりにも素晴らしかった。

 マルクスの思想で「疎外」という言葉が大事なのは聞いていたけど、それがこうも深い意味だったとは。というか、マルクスがここまで人間的なことを語っているとは思わなかった。よくわからないまま植えつけられている「極左」的なイメージ、人間性をともなわないメカニカルなイメージとは随分違う。

 

 基本的な主張は、「自分の人生は自分のものではない」ということ。自分の生産物(自分が人生という時間を消費して生み出したもの)は他人のものとなる。他人はそれを金で買う。だから人は、自分のものではない対象を生産し続ける限り孤独であり続ける。自分自身と一致した対象を作り出し、自分の元へと還元しなければならない。

 

 大まかに言うとこういうことでいいのかな。恐らくそういうこと。「解説から読んだほうがいい」と聞いたことがあったので、そうした。しかしマルクス自身の言葉のほうが、ずっと力強い。大切なことを語っているということが、文体から伝わってくる。経済学的な意味でも、哲学的な意味でも。

 

 特に印象的だったのが、最終章の「お金」という部分。備忘録がてら、一部引用する。

わたしがなんであり、なにができるかは、わたしの個性によって決まることではまったくない。わたしは醜いが、飛び切り美しい女性を買うことができる。とすれば、わたしは醜くない。醜さは相手をたじろがせる力となってあらわれるが、その力がお金によって消滅しているのだから。

 こうして金によって美醜という対立する二者は転倒する。金以外のものに本質的な価値はない。金は「相矛盾するものにキスを強要する力」だと書かれている。ものすごく悲しい人間観。しかしマルクスは、そこから脱出することを目指している。

人間は人間として存在し、人間と世界との関係が人間的な関係である、という前提に立てば、愛は愛としか交換できないし、信頼は信頼としか交換できない。芸術を楽しみたいと思えば、芸術性のゆたかな人間にならねばならない。他人に影響を与えたいと思えば、実際に生き生きと元気よく他人に働きかける人にならねばならない。人間や自然にたいするあなたの関係の一つ一つが、輪郭のはっきりした、あなたの意志の対象に適合した、あなたの現実的・個人的な生命の発現でなければならない。あなたが愛しても相手が愛さず、あなたの愛が相手の愛を作り出さず、愛する人としてのあなたの生命の発現が、あなたを愛される人にしないのなら、あなたの愛は無力であり、不幸だと言わねばならない。

なるほど、確かに金は恐ろしい力を持った媒介かもしれない。しかしそれはもしかすると、対象と一致した自己自身、マルクスが目指す生の形を見つけ出す判断材料となるかもしれない。金を通さずとも交換できる対象。

 にしても、金について愛や性の比喩を使って語ることの多いマルクス。とてつもない悲恋を経験したことのある人のような気がする。だからこそマルクスは、本質的には孤独を主題としているのでは。

 

 世界を見るもう一つの目を与えてくれた。読んだことは、間違いなくこれからに活きる。

 

経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)

経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)

 

 

カフカ「流刑地にて」

昨日読み終えたブッツァーティの『タタール人の砂漠』で、流刑地について言及があった。そのつながりで、今日はカフカの短編「流刑地にて」をさささと読んでみた。タイトルがすごく好きだったので、その存在は前からよく知っていた。

 

孤島の流刑地を訪れた旅行者。見せられるのは、奇妙な処刑のための機械。将校はこれから囚人を処刑するという。この機械と処刑方法に愛着を抱く将校は、この機械は時代遅れなので廃されようとしているが、どうかこの「伝統」を守るために一肌脱いで欲しいと旅行者に頼み込む。だがこの処刑方法と審判の方法が残虐だと考える旅行者は、それを拒否する。将校は囚人を赦し、自らが処刑のための機械に入る。

 

タタール人の砂漠』の砂漠よりも、ずっと明白に不条理。どう感想を持ったらいいのか困るほどに。

 

おそらくとっかかりになるのは、この短編が「流刑地」を舞台としていること。囚人がそこにはいるはず。だが処刑されようとしている囚人は元兵士で、内地で罪を犯して送られてきた人物ではない。その兵士が、上官への無礼という、あまりにも軽い罪で処刑されようとしている。

さらにそれを赦した(一言で、あっという間に、誰にも相談せず。罪を裁く権利があるらしい)将校は、なぜか自分が処刑される側となることを選択する。思い入れのある機械が時代遅れとなったからと書かれてはいるが、あまり説得的ではない。

彼が「処刑」されることによって、それを間接的に促した旅行者も罪人ということになる。その場に居合わせた兵士も、囚人に勝手に食事を与えるという罪を何気なく犯している(上官への不敬で処刑されるなら、この兵士も極刑に値するはず)。さらに、そのあと訪れた喫茶店では、住人が前司令官の墓を足蹴にしている。これも不敬のはず。

 

結局、罪人でない人間は一人もいない。これが流刑地なのか。

しかも、軽いはずの罪でさえ、極刑と同じ重さを持つ土地。

だから流刑地では、誰もが「死刑囚」である。

 

この作品が何を描いているか判断するのは読者に委ねられていようが、『タタール人の砂漠』と同様の示唆に富んだ物語だという気がする。

 

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)